【第一回 大月侑】
初回は、キーパーこと大月侑さんにインタビュー!
今回の公演では2作品を振付しているタフなお方。キレのある動きと素早い判断力で、目が釘付けになること間違いなしです。ちなみにあだ名の由来は、体育の授業でキーパーをやったという実に単純なもの。(本人が一番気に入っています)
彼女がこの公演にどんな想いを持って望むのか、探っていきます。 ※インタビュアー:女屋理音
——— 早速ですが、キーパーのダンス経歴を教えてもらえますか?
ジャズダンスを20年、ヒップホップとコンテンポラリーがそれぞれ6年になりました。今踊ってるのはジャズとコンテがメインかな。(写真:和知明撮影)
——— いわゆる、創作ダンス的なことは、大学入ってからっていう感じなんだ。
そうです、カルチャーショックだった。笑
そもそも受験の段階で、お茶大で学ぶダンスにしっくりきてなかったから。
——— しっくりきてなかったのに、お茶大を受験したんだね?
とにかく東京に出てみたくて。
専門学校とかも考えたけど、国立大でダンスやりながらが一番安いじゃん、と思って。
でも正直2年生ぐらいまでは、創作ダンスのことをあんまりわかってなかった。笑
——— 私も創作ダンスとは無縁だったから、最初は驚きが大きかったね。先輩の作品とか、外部の舞台を見る機会を重ねていって、あ、こういう世界もあるんだなって、少しずつわかっていった。見様見真似で作品を創り始めて、先輩の卒業公演とか部活とかで発表したね〜。
自分たちの卒業公演でもキーパーは作者をしてたんだよね?
そうです。数学の座標平面で原点を指す「O」と、自己の存在を重ねて作品を作ろうとしていました。
——— 結構、数学とか化学とか、そういうところから入ることが多い気がするんですが。何か理由はあるんですか?
単純に好きだからですね、元々理系だし。
人間の社会をそのまま見ようとしても、人間同士の思考がすごく入っちゃってて、バイアスがかかる感じがします。だから、それを紐解こうって思った時に、人間の社会をそのまま直視するんじゃなくて、私は一回自然科学的なところに立ち寄った方が共通点とか相違点を見つけやすくて。良い意味でも悪い意味でも、科学を信頼しているというか。そこからコンセプトを考えることが多いです。
——— なるほど。今回の公演で上演する作品は、科学を扱ってるんですか?
いや、今回は扱ってないですね。
卒業公演のときに作っていた作品は、座標平面とかを舞台上に描こうとしてたんだけど、教授に「座標平面とか書いて何になるんですかね」って言われて(笑)、それは確かにそうだなと。
私としても、素(大月による2019年の作品)を作った時より、なんか手応えがなくて。だから、数学をテーマにした作品はいつかやりたいなと思ってるけど、今じゃないなと。
自然現象とか科学とか、すでに答えや法則が分析されてることを舞踊作品のテーマにするっていうのは、難しいところがありますね。ただビジュアルをなぞって終わっちゃうみたいな、そういう感覚。
——— テーマ選びも個性が出るね!私は人間関係とか、抽象的なテーマを扱うことが多いから、キーパーの作品は見ていてとても新鮮に思う。
いま、「素」という作品が話に出ましたが、こちらは今回上演する予定の作品ですね?何人でやるんでしょう。
今回は9人で!踊ります。(写真:「素」より HORI撮影)
——— これも、化学元素からモチーフを得て作っている作品ですね。
めっちゃいいよね、この作品。エンタメ性と、舞踊としての芸術性が、見ててバランスがいいなって。かっこよさと、考えさせる余白が、絶妙なバランスだったなって思う。
クリエーションの進みはどう?
ありがとうございます。嬉しい。笑
まだリハ自体そんなやってないから、振り起こしがメインだね。構成はしっくり来てる部分が多いから、何かを変えるというよりは、動きの質を高めたいなっていうのが今は強いかな。
あとは、初演の映像を見てもらうことがあったんだけど、大学で化学を専攻している人に結構ボロクソ言われて。笑
化学に対するリスペクト、調査が足りなかったなっていうのがあったんだよね。それを今回、ちゃんとやりたい。
——— 作品の完成が楽しみですね!
卒公中止当時の心境は、どうでしたか?今になって、振り返って。
泣きそうだね。
2回、延期になったじゃん。
1回目は、もう世の中がほんとにそうだったから、まぁそうかーって思ったし、正直、まだまだ時間あるなって思った。自分的には作品の手応えもなかったから、これでブラッシュアップできるなって。
でも2回目は、あーもうほんとにないんだなーみたいな。ぽっかり穴が空いたってよく言うけど、こういう感じかって。
そのぐらい、大事な舞台だったんだなって思ったね。
——— 一生に一度の舞台だもんねぇ。
あれからもう2年半経ったけど、卒業して変わりました?心境とか。大学時代から比べて。別にダンスに対してだけじゃなくて。物の見方とか。
すごく長いスパンで考えるようになった。
今までは早く結果を出さなきゃみたいな焦りが常にあって、特に学生の時はわかりやすいリミットがあるから。次の学年に行くまでにとか、卒業するまでに、とかそういう基準で考えていたけど、卒業してそういうのが、一瞬でなくなって。
何歳までって、区切りを自分でつけることはできるけど、別にそういう区切りをつけなくても、いい踊りとか、舞台とか作れるなって思って。
何かをやろうと思った時に、その結果が早く出るとこを望まなくなった。大きな変化だね。
——— なるほどね。
それが作品とか創作に繋がってたりします?その考え方の変化みたいな。
最近同期の塙睦美と「study's」という即興パフォーマンス企画を始めて。それがたぶん一番、その変化が表れてると思う。これは一回の公演で終わることを全く想定していなくて、何回も、それこそ何年も重ねていって、自分の即興のやり方を見つけたりとか、そこから生まれたものを積み重ねて、一つの作品にしたりとか、具体的な期日はないけど、回数を重ねてどこかにたどり着くっていう。もしくは、最終的にどこかにたどり着けないかもしれないけどそれでもいいっていう想いもあって。そういうことをやっているのは大きい。
どうしても公演に出す作品とかってなると、その期日は守らないといけないから、早めにまず通してそこからブラッシュアップしてっていうやり方になっちゃうけど。それ以外の作り方に取り組み始めているのは変化だね。
(写真:「study's #1」より 丸山渚帆撮影)
——— キーパーは特に、リハのときに作品の構成をビシッとキメてくるなっていう印象があって、そういう面では真面目さが出てるなーって。
でもそれやめたいんだよね笑
いい面でもあるけど。ある人に、エンタメって伝えたいことは1割でいいからって言われたことがあって。作品の中の1割が直接的に伝えたいことで、そのほかはオブラートに包んでおくというか。そういう意味で言うと、私、伝えたいことが6割超、みたいな。コンセプトとか構成をガチガチに決めてリハに臨むとそうなっちゃって、過去の作品を思い返したら結構、押しが強すぎるなとかあるから。
だから、公演全体はエンタメを目指してるわけではないけど、私の作品に限っていうと、伝えたいことを1割にっていうのは目標にしてる。
——— ここまで、キーパーにとってのダンスの話をたくさん聞いてきたけど、ずばり、あなたにとってダンスとは?
呼吸、かな。
ある人から「なんでダンスをやめなかったんですか」って聞かれたことがあったんですけど、そのときに咄嗟にうまく返せなくて。
そんなことを考える余地がなかったというか、やめると言う選択肢が全然なくて。例えば、どんなに家計が厳しくても、時間がなかったとしても、いかにやりくりして続けるかを考えてきたから、ダンスをやらなくなったら、死に等しいくらいのイメージがあります。
それは、別に1日みっちり8時間ダンスをしているとかそういうことではなくて、1週間に1時間踊っている時間がある、とかそれぐらいでも自分の中ではやってるっていう範囲に入るんだけど。
ダンスとの距離感は時々で変わるけど、でもゼロにはならないね。無意識にもできるし、意識的にもできる、そういう意味で「呼吸」です。
——— では最後に、公演に向けての意気込みを!
きっかけはリベンジ卒業公演だけど、そういう背景を知らなくても、単純に一作品として楽しんで見てもらえる公演にできるように、頑張りたいです。
ダンスをやっているかどうかに限らず、色んな層の人に見てほしい!
ありがとうございました!
【第二回 加藤理愛】
2人目の振付家は、加藤理愛さん!
彼女が1日に消費するエネルギーはきっと平均の5倍くらい…。いつも元気に動きまくっています(笑)
個人的に、学生時代から現在に至るまで一緒にいる時間がとっても長い理愛さんですが、ここでさらに掘り下げていきたいと思います。
※インタビュアー:女屋理音
——— ではまず、ダンスの経歴を教えてもらえますか?
5歳の時、クラシックバレエからでした。
三重県出身なのですが、最初は地元の小さいカルチャーセンターで週に1回くらいから始めました。
小学2年生くらいで、そのカルチャーセンターの先生が留学するからクラスがなくなるというので、母がリサーチしてくれて別の地元のバレエスタジオに通うようになりました。
それまでは発表会がなかったから、初舞台は小学校3年生とか。結構遅めだと思います。
続けていくうちに、本格的にやろうということになって、小学6年生からは名古屋のバレエ団の付属研究所に通うようになりました。
高校に入ったら、大学は行くものだという空気があって。大学をどうしようか調べていて、お茶大を見つけてお茶大に行きました。今やっているようなダンスは大学からやっています。(写真:バレエに打ち込んでいた頃)
——— じゃあ今やっている、いわゆるコンテンポラリーダンスっていうのは、大学から始めたんですね?
正確に言うと、中学2年生の時に、上村苑子さんという今はドイツにいる方の作品をバレエ団の公演でやることになって、そこで初めて、いわゆるコンテンポラリーダンス作品を踊りました。
この時ぐらいから、私にはこういう方が向いているかもしれないと感じ始めていて。高2の時に、中弥智博さんという振付家のコンテンポラリー作品に出る機会があって、そこで確信しました。
ちょうどその頃、大学の志望校のことを考えなきゃいけなくて。大学でもバレエは続けるかなと呆然と思いながら、理系のコースにいて建築の大学を模試の志望校に書いていたのですが、模試の大学一覧資料を見ていて「舞踊」のワードを見つけてしまった。お茶大って「お」だから最初の方にあるじゃないですか。そこでお茶大にダンスが勉強できるコースがあることを知って、ネットで調べて、先生に相談して、文系に転向しました。大学卒業後のことはほとんど考えずに、「東京の大学でダンスの勉強できるなんて最高じゃん」と思いながら受験勉強していました。
———ちなみに、クラシックバレエよりコンテンポラリーダンスの方が向いてるっていうのは、具体的にどういう点で?
現実的な面で言うと、同じ作品に出ていた子たちと比べたときに、周りの対応も含めて、自分でも客観視できるくらい、クラシックよりも「できる」っていう感覚があったことが大きいです。クラシックでは敵わないような子と踊っていたけど、コンテンポラリー作品の時にはそれまでの教室での上手い下手のヒエラルキーみたいなものが関係なくなっていて。めちゃくちゃ思春期だし、ちょっとした優越感もあったのかもしれません。
ただ、シンプルにコンテンポラリーの方が楽しくて、自由を手に入れたっていう感覚がありました。高校生ながらに自由を感じていました(笑)
(写真:大野隆介撮影)
———高校生の時にやってたコンテンポラリーダンスと、大学で始めた創作ダンスっていうのは、何か違った?
まったく同じでもないし、違うわけでもない。共通点はあると思います。だけど中高生時代は、そこまで創作のプロセスに関わってないというか。振りを与えられて、やる。比較的受動的な関わり方でした。自分で創るところまでは全然やっていなかったから、その点は違うなと。他にも何かは違いました、圧倒的に。何だろう、空気みたいなものとか?
加えて、ただ踊るだけだった中高時代とは違って、上京してからいろんな作品に触れて、ダンス作品というのは空間全体を作り上げる作業が必要なんだということに気づいたことも大きかったと思います。
———大学時代は自分で作品を創ってたよね。はじめて創ったのは、何年生の時?
大学2年。フランス研修に行く時。マラソンコンサート(各大学が作品発表でマラソンする)っていう作品発表の日があって、「Place」という作品を発表しました。
それに向けて作品を作る時、確かチーム分けから始まったんです。最初に、自分が作るとしたらどんなことをやりたいかを書いた紙を全員が先生に提出して、そのバランスを見て、先生がグループを作りました。当時のメンバーは、先生が組み合わせてくれました。集団創作が前提で、どうやってみんなで作るのか、役割も皆さんで決めてくださいね、という感じ。
そこで何を書いたのかは全く覚えていないけど、一緒に作品を作ってくときのコンセプトというか、その3人で作ったプロセスは結構楽しかったです。作品は「コンテンポラリーダンスとかよくわかんないけど、私たち、これがおもしろいかなと暫定的には考えてるんです」みたいな、意思と余白のバランスが良かった気がしています。
———その時のコンセプトはどんなだったの?
パーソナルスペースでした。電車に座る時に、ほとんどの人が一番端から座るじゃないですか、習性として。その間にどんどん座ってくのが面白いなと思ったのがきっかけでした。間をとっていくとか、徐々にその人の領域に踏み込むみたいな。
その作品を作る時に、今もこれはけっこう課題っていうか、これを言われた時から何かがこう、私の志向するものがクラシックバレエとかとは違う方向に行っちゃったのですが。作品を作り始める前の段階で、向こうの人(研修参加者)は「なぜ人が踊るのか」をすごく考えているということを、先生がみんなの前で言っていて。それまではクラシックバレエで、バレエはやるもの、踊るもの、踊りは踊るものみたいな考えがあったから、その時に初めてそういうことを考えました。この界隈ではよくいう、「動機」みたいなことだと思います。
最初は、3人とも出会って一年ちょっとしか経ってないし、どうやって作っていくかわからないまま、色々実験を重ねてたのですが。ある日突然、今でもたまにあるのですが、作品の構成が一晩で降ってくるみたいな。一晩のうちに、ノートに舞台の図面を書いて、構成をバーって決めて。みんなに相談する間もなく。これが起きたらこうなってというのを頭の中で組み立てて、それを次の日「ちょっと提案あるんだけど」みたいな感じで試して。先生見せのギリギリだったというのもありますが、1日で作り上げた記憶があります。3人で作っているから、自分が決めていいのかわからないまま作りました。2人がついてきてくれたからありがたかったです。この作品は2月の公演で再演します。
(写真:「Place」上演・創作時の様子)
———そうやって作品を何個か創ってきたと思うのですが、卒公で上演予定だったのはどんな作品でした?
私はソロに取り組んでいました。
みんなは多分授業内で作品についてプレゼンしたんだよね?私はなぜか授業に出れなかったんです。コンクールがあったかなんかで。次の週には台湾研修に行っちゃうので、映像を出しました。なんでソロやりたかったんだろね。多分ただのエゴだよね。
———りえが強めにソロを希望してたの、私は今でも覚えてるよ(笑)
ちなみにどんなテーマでした?
記憶が抜け落ちてる、、、全然覚えていません。色々嫌だったんだと思う、忘れたいんだと思う。卒公なくなったし、辛かったし。
自分でソロやりたいって言ったけど、責任があるじゃないですか。卒公でソロって。それで首がどんどんしまっていきました。その頃、ちょうど学生表彰で奨学金をいただいたのもプレッシャーになって、作品が作れなくなっていった気がします。さらに、コロナの始まりの時期で公演がなくなるかもしれないことが重なって。ギブアップ。実際、公演はなくなって、何もなくなったと思いました。
——テーマは覚えてないけど、その時の感覚が今の作品に繋がってるかもとかは考えたりする?
2回の中止を経たけど、同じ作品を続けてはいました。(「あー」と叫びながら、ちょっと思い出してきて)たしか最終的には、「気分の移り変わり」とかそういうことをテーマにしていました。
この時の感覚というより、この時の経験は今に結構影響しています。それまでは「作品」がすごく独立していたというか、「ダンス」を特別なものとして扱っていました。舞台で踊ること自体が非日常で特別だからだと思うけど、そこから少し離れたというか、離れざるを得ない期間を経て、もっと日々の生活の中に何かないかと探すようになりました。
私、最初にテーマをドーンと決めて、これをやりたいっていう作品の作り方があまり好きではなくて。徐々に決まっていくとか、最悪決まらなくてもいいと思っていて。テーマがなくても、ただ作品を作りたいと思うことがあるんじゃないかと。
もちろん他人に説明するわかりやすい言葉として、テーマとかコンセプトがこうですと言えた方がいいとは思うのですが。
大学の時も、すごい聞かれたじゃん、テーマとかコンセプトとか。それがあんまり好きじゃない(笑)
——それはすごくわかる。私もテーマが後から自然と浮かび上がってくることが多いな。
卒公から繋がっていることもあるみたいだけど、中止当時はどういう心境だったか聞いてもいいですか?
1回目は、若干仕方ないと思いました。もちろん悔しいけど。人の命がこんなに脅かされていたら、できないよねみたいな、諦め。でもなぜ今なのかという思いはありました。みんな平等に緊急事態の中で、平等なことがこんなにも残酷なのかと、人生で初めて気がつきました。
この前、あるシンポジウムに行った時に、Perfumeのツアーが期間の途中で中止になった映像が流れて、2020年3月あたりの私たちの卒公が無くなったのと同じ時期の映像。パンデミックが起き始めているから、大規模イベント中止ですって。東京ドームの外にいた、参加予定の人たちが、「えっ!?」みたいに動揺していて、その映像が流れた時に、ザーーーっと思い出して泣いてしまいました。ショックだったことが、まだ全然消えてないなって。ちゃんとトラウマになってるんだなって。あの時期の映像流す時、予め注意喚起して欲しいと思います。
2回目は、ただただタイミングが悪かった。
卒公がなくなったタイミングで、他にも辛いことが続いて、ずっと泣いていました。卒論に取り組まなきゃいけないのが救いなくらい。その後は、有難い出会いもあって、なんとか立ち直ったかな。
(写真左:「Here」(2019)より邸子殷撮影、写真右:「I Scream Icecream」(2021))
———そうだよね、トラウマだよねあの経験は。そんな辛さを抱えながらですが、今回の卒公で上演する作品はどうでしょう、創作は進んでいますか?
14人の作品を作っています。なかなかこんなに沢山の人と公演をするチャンスはないなと思って、ずっとやりたかった群舞に取り組んでいます。
どこまで喋ろうかな、、、
2つ軸みたいなものはできてきていて、
1つ目は、ひとつの方向をみんなが向いてる、向くように仕向けられている、その方向以外に道があることも知らないまま前に進んでるみたいなシチュエーション。その可能性と向き合っていると言ったら伝わるかな。
2つ目は、生活を続けていくためにしている行為を、毎日ずっと繰り返していることのある種の怖さというか、なんでそれで気が狂わないのかという問い。こちらはまだリサーチ不足ですが、1つ目と何かしらクロスしないかと様子を見ています。
もともと、「宗教っぽい笑」とか「大丈夫?これ宗教みたいじゃない?笑」というセリフが(日本では)笑いながら話されるのが、不思議だなと感じていて、作品の発端も洗脳されて見える状態への興味からでした。
そんなことを考えていたら、安倍さんの銃撃事件があって、宗教とこの国の関係性を改めて見つめ直す風潮が強くなった。
———それがテーマに繋がっていった?
テーマに繋がるというより、生きていて目を逸らせない事態だから、少なからず影響を受けていると思います。この事件後の今に至るまでのメディアの取り上げ方とかちょっと異常だなとも思っています。
あとは、この作品に出ている人がダンスを生業にしている人だけじゃないことも大切にしたいと思っています。公務員の人とか、化粧品会社の人とか、メーカーの人とか、複業している人もいて、音楽家もいます。もちろん、自分がやっている仕事に、100%納得してるわけじゃない人もおそらくいて、そういうことを抱えながら生きていることと向き合いたいと思っています。綺麗なザ・ダンスに興味がなくなってきているというのもあるかもしれません。綺麗なダンスは綺麗なダンスで好きなのですが。
———綺麗なダンスに興味ないっていうことは、じゃあ作品を通して何を見せたいと思う?
明確なこれという答えは難しい質問ですね。そもそも「見せたい」のか?とか考えちゃいます。私が「良い!」って思うものはあって、その瞬間を共有できたら十分じゃないですかね。それが一般的に言う「綺麗」じゃないだけで。
何を見せたい?、、、強いて言えば、私たちが見ている世界・生きている社会はこのようですということをほんの少しでも提示できたら嬉しいです。
———すぐに答えが出ないこともあるよね。それを探りつつ作品が創られていってる気がする。
この作品は大学卒業してから作り始めたんだよね?
卒業してから2021年に1つ作っていて、2つ目です。
———卒業してから、自分の中で変わったこととかある?
変わったことだらけ、、、でもそんなに変わってないのかな
いや、変わってる、変わってるんですけど。
———あんまり「これ」って明確にあるわけじゃない?
ものを考える視点は変化してきていると思います。ダンスが、どう社会と繋がっていけるかみたいなことはすごく考えるようになりました。作品を見にきてもらうのも1つの繋がり方、バレエクラスでバレエが趣味の人に如何に満足して帰ってもらえるかを考えるのも1つだし、ダンスが好きな子供たちと一緒に踊るのも私にとって重要な繋がりで、別に劇場でのダンスだけじゃないなって。
あとは、仕組みやシステムを見るようになったかもしれないです。どうやってそれが成り立っているか。お金的なこともそうですし、それを必要としてる人がいるから、ここにこういうプロジェクトがあって、とか。そんな中で自分はどうするか、何ができるか。まだまだ勉強中です。
それから、「自分はこういう人間だから」という考え方はしなくなってきているかも、人格が流動的というか。変わったことにあまり意識が行かないのは、毎日変わり続けているからかもしれないです。小さな変化でしょうけどね。大きく変わるのは、まあ怖い。
———ではずばり、あなたにとってダンスとは?
2018年のダンス部の公演の時にも聞かれて、「出会い」って答えたのですが、それは変わらないかもしれないです。
、、、「わからないもの」。わからないから、知りたいから、ずっとその過程にいる。わかっちゃったらおしまい、じゃないけど、ずっとわからない気がします。その過程も楽しみたいです。
———では最後に、公演に向けて意気込みを、お願いします!
面白い公演にします。
ありがとうございました!
【第三回 菊池冴衣】
今回の振付家は菊池冴衣さん!
実は中止になってしまった卒業公演では、菊池さんと私の共同振付作品が上演される予定でした。
そんなエピソードも含めて、当時のこと、そして社会人になった今何を思うのか、話していただきました。お楽しみください! ※インタビュアー:女屋理音
——— じゃあまず、ダンスを始めたきっかけを教えてください。
ダンスを始めたきっかけ…バレエですね。
———何歳からやってるんですか?
5歳かな?小学校に入る前に始めた気がします。お母さん自身がバレエをやりたくて、でもやれなかったから、娘にやらせたくて。バレエ教室のチラシが入っていたから、体験に行って、私の許可を取らず(笑)、入会しました。それでダンスを始めました。
———大学で東京に出るまでずっと続けてましたか?
小学校卒業するときに大体やめるかどうかを決める人が多いじゃないですか、中学で部活始まるから。友達がみんなやめちゃって。
小学校6年間ミニバスやってたんですけど、きつすぎてやめたんです、6年生の、あと半年で終わるくらいで。そのままバスケやってたら、たぶん中高バスケ部だったと思うんですけど、でもやめたので、運動をダンスしかやらなくなってて。
中学のバスケ部は、小学校で一緒にやってた人たちも入るから、なんかちょっとなぁと思って、バレエを続けた記憶があります。で、なし崩し的に高校までやりました笑
高校で部活に入るのも意味わからないし、その時はバレエが楽しかったので。
———お茶の水女子大学を志望したきっかけは覚えていますか?
現役の時は全然違う大学を受けてたんです。浪人しますってなってようやく、私どこの大学行きたいんだろうなって考えました。現役の時は偏差値だけで決めてて、でも落ちるだろうなっていう大学を受けてて。
———大学ではダンスをやりたかったんですね?
ダンスやりたかったですね、せっかく高校までやってたから。
でもなんでお茶大に行き着いたのかさっぱり覚えてないんです。たぶんネットでなんとかして行き着きました。「大学ダンス」とかで調べて。それでもう、見つけた瞬間にここだと思って決めた気がします。
———入学まではずっとバレエで、大学入ってから創作ダンスに出会ったと思うんですが、カルチャーショックはなかったですか?
中学生、高校生の時に、スタジオで2、 3作品ぐらいコンテンポラリーダンスの作品に出たことがあって。これはコンテンポラリーダンスっていうよりモダンバレエだったんですけど。それで、コンテンポラリーダンスがどういうものかはざっくりわかってて、だからカルチャーショックとかはありませんでした。でも大学ではみんなダンスばっかりしてきた人たちしかいなくて、私以外そんな人見たことなかったので(笑)。中学でも高校でもそんな人いないし、そんな人がいっぱいいてすごいなって思いました。
(左:大学三年時All Japan Dance Festival in Kobe 出場時の写真、右:大学生活の一コマ)
———自分たちで作品を創るっていうのは初めてですもんね。
そうですね、それも初めてです。私は創作ダンス部でもなかったので。
———でもさえちゃんは結構作品を作ったんじゃないですか?
作ってないんですよ(笑)
私、モダンダンス部でしか作ってないの。
———そうか、初めて創ったの、モダンダンス部の群舞なんですね。
そう。なんで私が群舞を創ることになったんでしょうかね。元々モダンダンス部入ってなかったんですよ。
———そうですよね。モダンダンス部に入ったのが2年生の時で、そこからなぜか、最後の群舞をつくることになったと(笑)。
そうそう、おかしいんですよね(笑)。だからあんまり作品創ってないんですよ、私。
———ほんとですか?でもさえちゃんは、作品を創りたい人っていうイメージがあります。大学の後半は特に。
後半ね〜。せっかくだからと思って。
———デザインとか、ファッションとかが好きじゃないですか。だから舞台の創り方がすごい上手いなと思ってて。さえちゃんは、私の中で作者のイメージが強いんです。
3年モダン部、卒公が連続だったからかな。神戸も出ましたし。
———卒公でも作者やる予定でしたもんね。そうだ、神戸(大学ダンス部が創作作品を競い合う大会)出たんですよね。
神戸にも出ました。せっかくだからと思って。
でも、3年生の神戸は出るって決めてました。1年生の時に。
(写真:モダンダンス部公演より菊池作「コスモス」 HORI撮影)
———卒公で上演するって決めてたのは、どんな作品でしたか?
どんなでしたっけ、女屋さん(インタビュアー)?(笑)
———作者決めの時に、私はソロか群舞を、さえちゃんは小作品を創りたいって話になって、なんかよくわからないうちにドッキングしましたね。そもそも作品数が多かったんですよね。
そう、作品数多くて。なんで一緒にやろうってなったんでしたっけ。
———先にテーマ出したんですよ確か。それで、教授が、「ここはくっつけたらいいんじゃないんですか?」みたいな。そんなことを言われた気がします。
そうだったっけか…。私、そこらへんの記憶ぽっかり抜けちゃってるんですけど…。
あれは、もうちょっと頑張ればいけてた気がします。あの時は、「いやぁ、なんかもうこれどうしたらいいかわかんない」って思ってたけど、今映像見たら、良い要素がたくさんあるんですよ。
———さえちゃんの作品のコンセプトは、そもそも人間の肌が吸い付くみたいな、質感の話でしたよね。
そういうのが好きなんですよね。
人間がくっついてるのが好きなんです。見るのも、感覚も。
———私は、伸びる布が使いたくて。輪郭が曖昧になるっていうのがやりたくて。テーマ的には相性は良さそうでしたね。
あれは難しかったね〜
———2個のコンセプトをひとつの作品にするのはすごく難しかった記憶があります。
今思ったんですけど、女屋の布をもっと全面的に使ったら良かったんですよね。菊池作メンバーも布を使って、大枠を女屋のコンセプトにしたら良かったのかも。
———時間がなかったっていうよりかは、ちょっと捕われてたというか、頭が硬かったんですね。
そうそう。もっと、いろんな角度から見れば良かったんですよね。
———今回は、その作品をリクリエーションしてるということですが、コンセプトは、変わってますよね?
———正直、コンセプトとかわからなくなっちゃいました。創り方とかもわからないし、色々考えて、”良い!” とか、”かっこいい” と思う動きとか展開とか、シーンを、つなげたらいいんじゃないかっていうのに行き着いて。
———理論的に考えすぎるとわかんなくなりますもんね。
そう。それで、たまたま石にハマってたから、石がコンセプトになってます。
———今回の作品は、「もの派」を代表する現代美術家、李禹煥の作品から着想を得てるとのことだけど、もともと李禹煥は好きだったんですか?
そんなに深くは知らなかったんですけど、いろんな現代アーティストの展示会とかで何回か見たことがあって、おもしろいなと思っていて。空間自体が心地いいのが良いなと思って。
———今回のさえちゃんの作品は、質感ももちろんだけど、空間を作るみたいなことに重きを置いてる気がします。
確かに、かっこいいって重要ですよね。コンセプトとか思想も大事ですけど。
そう、今回卒公と違うのは、卒公は正直、「制作発表」みたいな気持ちだったんです。こういうのを作って、こういうことがやりたいんですっていう発表会。
でも今回は、ある程度のお金を頂いて、私たちももう学生じゃなくなって。来た人に、「楽しい」とか、「おもしろい」とか、思ってもらえるように。ダンスに精通してる人だけが来るわけじゃないから。私の友達とかは、ダンスを詳しく知らない人ばっかりなんです。
(NTMDメンバーには)ダンスが上手な人がいっぱいいるから、せっかくなら踊りで見せたいなって。
(写真:卒公時 菊池・女屋作品のクリエーション風景)
———卒公が中止になった当時のことは覚えていますか?心境とか。
いまだになんか、よくわかってないんです。卒公は確かになくなったはずなんですけど、あんまりわかってない。なくなったことが。元からなかったみたいな…。実感がありません。
もちろん残念でしたけど、周りの人(親とか友達)のほうが残念がっていました。
———卒業してから、何か変わったことはありますか?
変わった気がします。
ちゃんとしてないところは変わってないんですけど(笑)、会社に入ってから、ある意味ドライな考え方ができるようになりました。前は結構、自分が下に行く方が楽というか、例えば値下げ交渉をする時に、申し訳なさみたいな、人としてどうなんだろうみたいな。腰を低くした方が楽っていうのがあったんですけど、就職して、それはそれで違うんじゃないかって思い始めました。しっかり”対等”っていうのが、感覚としてついた気がします。
自分の主張を表明することの大切さというか。
———さえちゃんには予算とか組んでもらってるけど、その値段交渉とかも提案してくれましたもんね。
そう、仕事もそうですし、日常でもね。
———自分がやりたいことを伝えて、向こうからも返ってきて、それをすり合わせて答えを見つけるみたいな。
うんうん、そうですね。
———では、あなたにとってダンスとは?
みんなと遊べる口実。
———良くも悪くも私たちのつながりはそこでしかないからね。でも幸せなことだよね。
”遊べる”はちょっと違うのかな。会える。みんなと会える口実かな。
昨日思ったんです、神戸作品の練習しながら。メンバーのうち3人で朝集まったんですけど。朝から作品の話をして、ここの間がどうだ、とか、腕の角度が、とか、あーだこーだディスカッションして。変だなって思いました(笑)。でもすごく幸せだと思います。
———最後に、公演に向けての意気込みをどうぞ。
今回の公演は、集まってみんなでわーわー話して、ディスカッションして、踊って、自分たちが楽しいっていう中でできた作品群だと思うから。だから私たちが楽しんでる様子を見て楽しんでもらいたいなっていうのが一番あります。
ほんとに、全員と仲良いって最高だなって思いました。
———16人いて、グループとかないですもんね。
そう、ほんとに。その青春感をみてもらえるといいのではないでしょうか。結局そういうのが、一番感動しちゃうからね。
———人間ですもんね(笑)。今回の公演はそういうところが見どころなのかもしれないですね。私たちの繋がりとか。
うんうん、そう思います。
ありがとうございました!
【第四回 女屋理音】
第四回は、女屋理音さんにインタビュー!
きめ細やかな踊りと、見る人を巧みに引き込む作品創りを武器に、ダンサー・振付家として精力的に活動を続けている彼女。そんな女屋さんに、作品創作のあれこれを聞いてみました。
※インタビュアー:加藤理愛
——— まずは、女屋さんのダンス経歴を教えてください。
ダンスを始めたのは3歳のときで、クラシックバレエが最初でした。母が昔からダンスをやっていて、それで私も、バレエスタジオに見学に連れて行かれました。母に「バレエやる?」と聞かれて「うん」と答えたそうですが、覚えていないです。笑
——— ダンスをやるにあたって、親の影響は大きかったですか?
そうですね。特別頻繁に観劇に連れて行ってくれたとかではないですけど、習い事で夜遅くなっても送り迎えをしてくれるとか、ご飯を作って待っていてくれるとか、そういう環境が整っていたという意味で親の影響は大きかったと思います。
——— 群馬のバレエスタジオでは、バレエ以外のダンスもしていましたか?
してました。うちのスタジオはWSに力を入れていて、毎年夏になると外部の講師がWSをしに来てくれていました。バレエだけではなくて、ジャズダンス、キャラクターダンス、カントリーダンス、演劇、造形とか本当にいろんな人が来てくれて。
8、9歳くらいからジャスダンスを継続的にやっていて、コンテンポラリーダンスはコンスタントにはやっていなかったですね。それこそ、WSのときに踊ったり作品を創ったりすることが多かったかな。
——— スタジオでやった中で、一番好きだった作品は?
「ケルトの風」という作品です。スタジオのレパートリーの一つで、アイリッシュダンスにあたるものです。上半身を完全に固定して足だけで踊るというのが特徴で、その作品は大好きでしたね。
——— お茶大を目指すようになったきっかけは?
一つは、群馬のスタジオの先生がお茶大のOGだったことです。それで、受験を考え始めたときに、「確かあの先生はお茶大の出身だったなー」ってことを思い出しました。
あとは、母にお茶大を勧められていたらしいです。これもあんまり覚えてないんですけど。(笑)
私自身は、高校も女子校だったから大学は共学のところに行きたいっていうのが強かったんです。だから、お茶大のオープンキャンパスも卒業公演も文化祭も行ったことがなくて、正直大学にはあまり期待していなかったです。創作ダンスというものにも馴染みがなくて、その世界を「変だなー」と思いつつも、志望校にお茶大を書き続けて、気づいたらお茶大に入っていました。今考えると、そういう運命だったのかなと思います。
——— 大学に入ってみて感じたギャップはありますか?期待しなかったことが逆によかったとか?
シンプルに、面白いなと思いました。大学に入るまで、自分で作品を創るという感覚がなかったから、自分が好きなように作品を創って発表できるということに純粋に興味が湧きました。
——— 私から見ていて、女屋は大学1,2年の時、大学のイベントに関与しない子というイメージがあったんですけど、どこで変わったんでしょう?
地元のスタジオでの本番が忙しかったのもあるし、その時は創作ダンスというものに壁を感じていたかも。All Japan Dance Festival in Kobe(以下、神戸)とか、そういう大会の雰囲気とかも得意じゃなかった。
それが変わったきっかけとしては、もしかしたら新2年生になったときの卒公が大きかったかも。あのときに初めてみんなと創作をして、その過程でみんなのこともよく知れたし、大学で長い時間を一緒に過ごすことが増えたから、そこから創作ダンスへの壁みたいなものが薄れていったんじゃないかなと思います。
———なるほど。作品を初めてみんなで一緒に作ったのは大学2年生になるときと仰いましたが、初めて自分一人で作ったのはいつですか?
2年生の秋かな。モダンダンス部のパフォーマンスで、初めて自分の作品を作ることになって、先輩1人と同期1人、私含めて3人の小作品を創りました。
(左:大学に入学した4月、同期と共に。右:「シャツのしわ」舞台写真 ©︎Tetsuya Haneda)
———それはどういう作品でしたか?
「シャツのしわ」というタイトルでした。あの時から感覚的に創ってたんだなと思うのは、シャツに残ったしわに、人間の愛嬌みたいなものを見出してたんですよね。
環境のところでいうと、出演者に先輩がいたこともあって、めっちゃ緊張しました。年齢が違う、言語が違う(=対同期と対先輩ではコミュニケーションの言語が違う)のは、自分自身の経験としても、作品としてもよかったんだと思います。出演してくれていた先輩が、舞台経験が豊富なこともあって、私から問いかけたことに対して答えが返ってくるのが勉強になりましたし、自分が投げたものに相手が返して、そのやりとりから作品を創っていけるのは自分にとって希望だった。
——— 自分一人で頑張らなくていいんだ、みたいな。
そうそう。
———もともと卒公で上演しようとしていた作品について教えてもらえますか?
「ものの輪郭の変化」をテーマにしたくて、ソロか群舞がよかったんですけど、さえと少人数の作品を創ることになってました。
→ 詳しくは【第三回 菊池冴衣】のインタビューをご覧ください。
さえは人間の肌同士が触れ合うことに着目した考えを持っていて、私が考えていたテーマとの相性が良さそうという作者同士の同意と、教授からの助言もあって、共作が実現しました。私は、小道具として伸びるシーツを使っていて、それに伴い、いろんな布を使おうと試行錯誤したんですけど、最後までまとまりませんでした。さえも言っていたけど、もう少し頑張ったらいい作品ができていたと思います。
———もうちょっと頑張れば行けた、ということについて詳しく教えてほしいです。
あのときは、私とさえで完全に分離して作っていて、それぞれが創ったものが、全く別の作品として並行して上演されているのもありかなと思ってその方向で作っていたんですけど、もっと、私とさえの間でコミュニケーションをとって擦り合わせるべきだったと思います。話し合いはしていたんだけど、形にしようとしていたというか、形にするための話し合いでした。もう少し前段階の、布をどう使うか、とかそういうところも含めてディスカッションすべきだった。頭がまだ硬くて、狭い範囲でしか考えられなかったんですよね。
——— 一人で作るのと、他の人と一緒に創るのは違う?
自分が思いつくことは感覚的なので、言語化することが億劫に感じます。言葉にすると、頭の中にあるものと別のものになっちゃうような気がして。
「エピセンター」(女屋による2021年の作品)の出演メンバーとかは長い時間一緒にクリエーションしているのもあるし、私がいいと思うものをメンバーが出してくれるから楽ですけど、もともと言葉で導くのは得意じゃないです。
——— 少し話題を変えて、卒公中止のときはどうでした?
1回目はみんなで集まっている時に聞いたんですよね。あのときは、そりゃそうなるよね、みたいな空気があって。でも、延期できるでしょっていうある種楽観的な感じでした。
2回目は確か文面で知らされた気がします。私は会場関連の業務を担当していたから、事務的な作業(会場のキャンセル、打ち合わせのキャンセル、スタッフへの連絡など)が降りかかってきて、悲しむ間もなく中止になってしまいました。元々なかったんじゃないかと、思うくらいの。だから、悲しみに打ちひしがれる、みたいなことはなかったんです。淡々と無くなっていった感覚で。でも、思い返すと、すごくおかしい、変なことだなと思います。
——— 今はどんな作品を作っていますか?
「24」というタイトルで、塙睦美とのデュオを創ってます。この公演の開催が決まる前から稽古を始めていた作品です。もともとは、むつみん(塙のあだ名)から女屋にソロを作って欲しい、という依頼があって、何を決めるでもなく、稽古場をとってリハーサルをし始めたのがきっかけです。
——— なぜソロだったものがデュオになったんですか?
一時期、作品の中で自分が踊ることでなんか「踊っちゃった」みたいな、踊ることを自己満足的な行いに感じてしまうことがあったんです。これはソロでも他の出演者がいる作品でも、どちらとも限らず感じていたことで。でも、三東瑠璃さんとか柿崎麻里子さんの公演を見て、身体で魅せる純粋な踊りもやっぱりいいな〜って思うようになったんですよね。あとは、梅田さんの影響もある。
(女屋は昨年、振付家・ダンサーの梅田宏明がディレクターを務める「Movers Platform」に参加。「Movers Platform」:動きそのものの魅力を追及する企画)
自分の動きを見せることで面白いと思ってくれる人がいるというのがわかって、それで私も入ってみようと思ってデュオになりました。
——— 「24」を見ていると、私はつかめそうでつかめない、みたいな感覚があるんですけど、どうやって創っていったんですか?
テーマはなくて、キーワードだけ決めています。自分たちが年女で24歳だとか、24には約数がいっぱいあることとか、1日が24時間なこととか、24の中にいっぱい数字がある感じがいいなという話をしていました。
あとは、むつみんとは稽古中に本当にたくさん喋っているんだけど、稽古期間中にちょうど皆既月食があって、宇宙の話になったんです。それで、「宇宙は大きいから自分の悩みなんてどうだっていいよね」って言う人いるけど、あの感覚全然わからないよねーっていう話になって。"自分の現在地"に核を置いた作品になっていきました。
(写真左:オンラインで集まった同期、写真右:塙との稽古の様子)
——— 理音にとって、作品を創ることってどんなことですか?
手放しに楽しいとは言えません。笑
興味深い、が近いのかな。
私、稽古前は憂鬱というか、その日やることを考えていかないといけない、というプレッシャーがあって。人の時間をもらっているわけだから。ただ、最近になってようやく、作品は稽古場で生まれていくものだということがわかったんですよね。その場で実際に生まれる展開とかアイディアを大事にしたいと思っています。
——— どういう点で「興味深い」だと思いますか?
ダンサーが動いているのを見て、自分が「それいい!」と確かに思える瞬間があるのはすごいと思います。何も言わなくても、今の間の取り方がよかったって、みんなの意見が合うことがあるんですよ。数学みたいに答えが出るわけではないのに、自分がいいと思うものとみんながいいと思うものがマッチする瞬間があるって、本当に尊くて豊かな空間・時間だなと思います。
——— ダンスを続けてきたきっかけや、転換点はある?
自粛期間は本当に大きかったです。あの時期は、場所と時間だけがあって、やることがなかったんです。自分たちがやるはずのものがなくなったり、そういうちょっとした理不尽さ、不満みたいなものが積み上がっていって、それを作品にしようと思いました。そうしてできたのが「I’m not a lier.」という作品です。
そのときは捌け口みたいな感覚だったと思います。でもその作品が賞をもらって(同作品が横浜ダンスコレクションで最優秀新人賞を受賞した)ここまでつながってきているし、あの時間がなかったら今の自分はないと思います。
経歴を見ると2020年だけめっちゃ少ないですけど、自分の中ではすごく思考できた時間でした。
——— 確かに、あの時期は忙しさとはまた違った充実感がありましたよね。
そうだね。今まで当たり前にできていたことができなかったから。小休止でしたね。
(写真左:「I’m not a liar.」舞台写真 ©︎Ryusuke Ohno、写真右:暇を持て余して、自宅でパンを焼いた)
——— それでは恒例の質問を。あなたにとってダンスとは?
「降りかかってくるもの」かな。
小さい頃からずっと、「ダンスが大好きで、踊るのがすごく楽しい!」みたいなタイプではなくて。練習も好きじゃなかったですし。
踊っているのが楽しい、というよりは、「アラベスク(クラシックバレエの技名)をする前に足をこう使ったら上手くバランスが取れる!」みたいな、発見をするのが楽しかったです。研究みたいな楽しさですね。無条件に楽しいわけではなくて、常に苦しみがある感じ。だけど続けている、本当に不思議だと思います。
あとこれは色んなところで言ってますけど、表現の形態がたまたまダンスだっただけで、戯曲とか演劇、小説、美術とか、ほかの可能性はあっただろうなと思います。
——— 最後に、公演に向けた意気込みをどうぞ。
気づいたら手に負えない規模になっている感じはあります。笑
卒業公演って名前があるから、ダンスを見たことがない人も来てくれることになってて、そういう人たちからしたら、私たちのやっていることに対して「なにやってんの…?」みたいな衝撃は強いと思います。そこで完全に拒否されたら寂しいけど、この公演が新しい世界への入り口になってくれたら嬉しいですね。
——— そこは終わってからじゃないとわからない部分ですね。
そうですね。本番まであと少し、頑張ります!
ありがとうございました。
【第五回 嶋根莉子】
「心臓のささくれ」終演後初のインタビューは、嶋根莉子さん!
公演では、「細胞の水 vol.0」の作者を務めました。約3年前から作り始めた作品をここまで追求した、嶋根さんの粘り強さに感服します。公演についての感想も聞かせてもらいましたので、お楽しみください!
※インタビュアー:女屋理音
——— では早速ですが、ダンスを始めたきっかけを教えてもらえますか?
5歳から中1まで、クラシックバレエをやっていました。きっかけは友達の発表会を見に行って、衣装が綺麗だなって思ったことが始まりで、幼馴染とバレエ教室に通い始めました。でも小6くらいから、バレエって背が小さい子が前になるし、上手な子ばかりが使われるし、型があって同じような作品ばかりでつまらないなって思い始めたんです。
あと、全国大会とかもっと大きい大会に出てみたいっていう気持ちがあって、中学受験をする時にダンスが強い学校を探して、富士見中学(中高一貫校)に入りました。
バレエにあまり魅力を感じなくなっていったけど、何らかの形でダンスを続けたい気持ちがあったんです。
(写真:富士見中高時代)
——— 中高時代はダンス部だったんですよね?
そうです。ダンス部が週4〜5で練習があって、忙しすぎてバレエをやめて、部活一本に絞りました。創作ダンスがメインでしたけど、体育祭、文化祭でチアとかジャズ系とか色んなジャンルも踊りました。でも創作ダンスが一番楽しかったですね。
——— NTMDメンバーの中では莉子ちゃんが一番創作ダンスを本格的にやってたメンバーだと思うんですが、いつからお茶大への進学を決めていましたか?大学の先輩にも富士見出身の方が何人かいらっしゃいますが、影響を受けたりしましたか?
大学は、高3になる直前に決めたと思います。高2の11月に全国大会があって、そこで優勝してやりきった気持ちだったんですが、やっぱり続けたい気持ちもあって…。大学で踊る先輩の姿に憧れて…でも3年連続で富士見出身の学生をとってくれるのかっていう不安もありつつ。(笑)他の大学も候補にあがってはいたんですが、大学のカラーと自分の特性を考えて、お茶大を選びました。正直、入る前はそこまで大学に期待はしてなかったんです。
——— 私自身、中高生のダンス部のコーチをしているので、大会でたまに富士見中学・高校チームを見かけるんですが、練習厳しそうですよね。
練習は大変でしたね…。上下関係厳しめで、怒られることも多くて、中学の時は高校の先輩がすごい怖かったです。近づくだけでもビクビクしてました。(笑)
でも、今となっては、あのダンス部生活を乗り越えたら怖いものはないなって思いますけどね。
——— もともと卒公で上演予定だったのは、神戸(「All Japan Dance Festival in KOBE」という大学ダンスの大会。以下、「神戸」)で踊った作品ですよね。「心臓のささくれ」の作品ラインナップの中では珍しく、すでに上演されてる作品でしたね。神戸、どうでしたか?
このインタビューのために色々見返してたんですけど、やっぱり色々思い出すことはありますね。うん。
でも、一番はやっぱりとても悔しかったです。
(写真左:2017年神戸作品「女たちの狂詩曲」より。写真右:2018年神戸オフショット)
——— すごい時間をかけて作った作品じゃないですか。元々は3年前の4月(1つ上の代の卒業公演の際に創作した3年生群舞「cells」が作品の原型となっている。)から、ずっと長い間。
うんうん、そうですね。
「cells」は、初めて同期みんなで踊った作品ということもあって、すごく思い出に残ってます。小道具の球の試行錯誤とか大変なこともたくさんあったけど、全部含めてすごくいい思い出だなぁと。卒公に向けての春合宿で、コテージにミシン持ち込んで、みんなで球作ったりしましたよね(笑)。
——— しましたね、懐かしい(笑)。みんなすっぴんにジャージで、もくもくと作業してましたね。それだけ時間かけてることもあって、やっぱり大学の卒公の中でも、神戸の再演は毎年クオリティがすごく高いと感じます。
大会に出してるから、ディテールまで細かく追及してるっていうのはあると思います。ただ、今回は25人の作品を7人バージョンに作り変えたので、だいぶ見え方は変わっていきました。それに伴って振付も構成も変えていって。
——— テーマは変えずにですか?
テーマはそのままでしたけど、3年生群舞「cells」の感じも入れつつ創りました。だからvol.0っていうのをタイトルに付けてるんですけど。原点に戻る、という意味合いもあって。
色んなことを経て完成した作品なので、全てを込めて、最後卒公で上演したいという気持ちで創りました。
(写真:3年生群舞「cells」上演時のオフショットと小道具の玉)
——— 3群の時は〈死〉をテーマにしてたじゃないですか。そこからどう変わっていったんですか?
神戸で受賞するために、社会問題を取り入れた重めのテーマにしようってところから始まって、暗い作品になってしまっていたんですよね。でもきっと自分たちにも合ってなかったんです、そういう重いものが。教授からも良い評価をもらえず、、それで改めて自分たちのやりたいことを考え直した時に、「綺麗なものは綺麗だと見せたい」とか、そういうキーワードが出てきました。
——— 具体的に、どんなテーマになりましたか?
元々は環境問題を考えていて、自然を人間が破壊し動物が苦しんでいる様子や、自然を守るべきだという考え自体を表現しようとしていました。でもそのこと自体が利己的なんじゃないかと思って、自然の神秘的な美しさそのものを表現することでこそ、見過ごしがちな「自然に目を向ける」という小さな一歩が踏み出せるのではないかと思いました。また、自分が今見ている自然に、自分の子どもが触れられないということが起こりえる可能性を知ったうえで、自然と自分との在り方を考え直すきっかけになれば、という主旨の作品になりました。
(写真:2019年神戸作品「細胞の水」より舞台写真 ※株式会社フォトスタジオ八木撮影。右はオフショット)
——— では少し話題を変えて。卒業してから変わったことはありますか?
ダンスと触れる機会が少なくなって、自分で創るとかがあんまりなくなりました。レッスンを受けに行ってるのは自分でリフレッシュしたいっていうのと、本番に向けて体を落としたくないっていう理由からなんですが、疲れてレッスンに行くと、どうしても受け身になってしまうし、与えられたものを踊ることでしかないから、考えたりする時間は社会人になってからは少なくなりましね。(笑)
ダンスとか見に行った時の感じ方に関して、今までだと、「自分が作品を創るとしたら」みたいな、材料集めとして見ちゃってたんですけど、今は純粋に見られます。普通のお客さんとして入ってくるようになりました。
一個開放された感じはありますね。こういう風に入ってくるものだよな、普通は、と思います。
——— 考え方の変化とかはありますか?ダンス以外でも。
つまり、作品を考え直すにあたって、学生時代に作ってた時とは違うものの見方とかを、感じたりしましたか?
もっとほんとはじっくり考え直す時間をとりたいんですけど、実はとれてないのが現状で。小道具を使っていかに面白くするかってことをメインに考えて、それが今の精一杯って感じです…。
とにかく時間が欲しい!頭の切り替えがおかしくなりそうですよね。「あら、私今、何者?」みたいな。昨日まで踊ってたけど、今日は、パソコンの前で事務作業してる。自分が何人いるんだろうって感じです。
——— では恒例の。あなたにとってダンスとは?
今は、息抜きの時間でもあるし、学生時代の自分に一瞬で戻れるものでもあるし、見てる人によって受け取るものが全然違うから、その面白さはずっとあります。何回かやめるかなっていうタイミングはあったんです。別にやめたいと思ってたわけじゃないんですけど。ここで終わりになっちゃうかなって思っても、ずっと続いてるっていう感じですね。
でも踊りは続けていきたいなと思ってます。踊りに自分が映し出されるような気がするので、色んな経験をしながら、自分の踊りの変化を楽しんでいきたいです。
——— ダンス大好きで、一生やります!ってわけじゃないけど、そばにあるって感じがしますよね。
そうですね。
性格的にですけど、ダンスやりすぎると、一回離れたくなっちゃうんです。だからダンスを職業にはできないなあって。やりすぎると、もういいかな!ってなるから。でもしばらく離れると、またすごいやりたくなって、その繰り返しですね。
——— りこちゃんはフルタイムで働きながらレッスンに行ってるのがすごいですよね。
ほんとに息抜きです。でも、日によって考えることは変えるようにしてます。今日は受け身、っていう日と、周り見ながら考えながらやろうっていう日と、今日めっちゃ動いてみよっていう日と。その日によって変えてみてます。自分的に面白いレッスンの受け方だなって、最近ハマってるんです。
——— レッスンも同じ先生のところ行ってると同じようになってきちゃうから、モチベーション難しいですよね?
気づいたら今の先生のところに4年位行ってて、コンビネーションとか毎週同じのやってたりするから、それは自分に合ってるんです。その日のコンディションによってやり方を変えるっていうのを楽しめてて。
——— その継続力、見習いたいです…。卒業してダンスとの向き合い方も変わったようですが、どんな想いで「心臓のささくれ」公演に挑んでいましたか?
せっかくみんなと集まって、2年越しで卒公のリベンジができるから、この機会を大切に、感謝の気持ちを忘れずに、悔いなくやり切りたいというのが一番でしたね。
個人的にはやっぱり神戸の作品は思い入れがあるから、それも悔いなくやり切れたらいいなって。上演はしてるけど、予選と決戦しか踊ってないし、照明付きで踊ったのは一回だけですし。一緒に色々味わった7人で、全く違う形に創り直していて、3群の時からも含めて、いろんな背景があって出来上がった作品だから、そこは悔いなく表現して、踊り切りたい!という意気込みでした。
——— 実際公演を終えて、どうでしたか?
やっぱり練習時間の確保が大変でした。平日、仕事が終わってから夜の時間か土日しかなく、土日9:00〜21:00でやっても時間が足りず…。本来休みのはずの土日が終日練習になるから、平日もヘトヘトで、という繰り返しが、特に最後の1ヶ月はきつかったです。
みんな心身ともに限界突破してた気がします(笑)。でもそんな中でみんなに会えるのはやっぱり嬉しいです。みんなに会うと一瞬で学生時代に戻った感じになれて、それぞれ忙しい中でも、卒公を成功させたいっていう1つの大きなゴールに向けて頑張る同期の姿はすごく刺激になったし、みんなとだから頑張れました。1から公演を作り上げちゃうスーパー同期への愛が増し増しです!笑
(写真:NTMDダンス公演「心臓のささくれ」オフショット。左は舞台仕込みを手伝う嶋根)
——— 同期との関係性に変化はありましたか?
この卒公を経て、さらに仲が深まったなと思います。舞台裏でみんなと、がんばろ〜!ぎゅーっと抱き合う瞬間、すごい安心感と愛と、本番だっていう緊張感と、あの感じがすごい好きでしたね。終わってしまうのが寂しくて、カーテンコールの時にはうるうるでした。
——— 私も舞台裏のこと、鮮明に覚えています。本当に終わったとは思えないですね…。これからに繋がっていくことについて、何か感じていることはありますか?
この経験はこれからの自分にとってとても糧になるだろうなと感じています。
個人的には、やっぱり人と踊るのは楽しい!と改めて感じました。いつまでできるかはわからないけど、仕事と両立しながら、踊り続けられたらいいなぁと。レベルアップできるように努めます!
NTMDとしては、私たちだからできること、私たちなりの形を探しながら、活動を続けていけたらなと思います。今回の卒公アンケートでいただいたありがたいお言葉とこれからの私たちを想った厳しいお言葉と、どちらも受け止めて、今後の活動に繋げていきたいですね。
ありがとうございました!